ブルーオーシャンズの歴史

1992年
この年の秋、某電機メーカー研究所の同期入社仲間でチーム結成。メンバーは篠原、中村、伊藤、吉永、西本、星野、鍋島、宍倉、小原、大淵といったところであった。さらに篠原の友人である藤原と岡、さらにその友人の服部らが加わりチームとしての形を成す。また、篠原を中心とした幹部数名が相模大野の★☆店にて会談し、「ブルーオーシャンズ」というチーム名を決めた。そして記念すべき9月23日、六郷土手のグラウンドで、ナチュラル相手に初試合を実施。その後、とりあえず練習試合をいくつかこなしてチーム初年度を終える。
1993年
マネージャー(萬行・平川)も加わり、スコア集計も始めて本格的な活動に入る。初代主将に岡が就任。主な対戦相手は、ナチュラル、相模キッドブラザーズなど。平塚球場や相模原球場など、プロ野球でも使用する本格派球場での試合もあった。また、某電機メーカー研究所内の「中研リーグ」に加盟。さらに国分寺市野球連盟にも加盟し、Cクラスのトーナメントに参加するも、無惨な敗戦を繰り返す。この年、熊谷・大高・小田切らが新加入。また、夏には「いこいの村あしがら」で第1回合宿を開催。丸2日間の猛練習をこなした。12月には「しちりん亭」にて納会を行ない、初代MVPに藤原を選出。賞品はドラえもんの着ぐるみであった。
1994年
中研リーグ、市民大会とも、多少は勝てるレベルになってくる。第二代主将に服部が就任、「四番ピッチャーおれ」の名言を残す。夏には九十九里で第2回合宿を開催。民宿での熱い議論は後々までの語り草となるが、練習は一日のみで翌日は海水浴となり、後年の合宿の基本パターンとなった。この年の新人は、阿部・細野・上野ら。「和田蔵」で行なわれた納会では、伊藤が文句なしのMVPに選出されるとともに、次期主将にも決定し、翌年のチーム運営について更に熱い議論が続けられた。
1995年
第三代主将に伊藤が就任し、これまでの放任型経営からの大きな脱皮を図る。この年、チーム創立の立役者・篠原が神戸に帰るためにチームを離れるが、代わりに直江・ミシャという二人の強力新人が加入。特にオランダからやってきたミシャの真摯な練習態度は、チームに大きな変革をもたらした。主将のリーダーシップと新人の活躍の相乗効果か、秋の国分寺市市民大会Cクラスで優勝、ついにBクラス昇格を果たす。中研リーグでも優勝争いに加わるようになり、この年ブルーオーシャンズは第一次黄金期を迎えた。なお、9月にはチーム有志が茨城で行なわれたビーチサッカー大会に参加、一部選手のスタミナ不足が露呈するという一幕もあった。この年の納会会場は「飛騨」。MVP争いは混戦となったが、三冠王の大淵を抑えて、市民大会優勝に貢献したミシャが獲得。「ナインティ~ン、ナインティーファ~イブ」の名言とともに表彰された。
1996年
第四代主将に大淵が就任するも、前年の篠原に続き、服部・ミシャと立続けに主力選手が東京を離れ、人数集めにすら苦労することとなる。二本柱が抜けた投手陣には細野が抜擢され活躍するものの、昇格を果たした市民大会ではBクラスのレベルについていけず、前年の栄華から一転して苦しいチーム運営となる。新人として藤森が加わり、強力な打撃で貢献したが、すぐに出向元の長野に帰ってしまい戦線離脱。シーズン終盤になって加順が加入し、ようやく戦力が整い始める。「プリンセスライラ」で行なわれた納会では、史上初の4割台首位打者となった大高がMVPを獲得。

1997年
この年は、チーム設立以来のグレーのユニフォームを変更し、ドジャーブルーの上着の新ユニフォームで開幕を迎えた。第五代主将に中村が就任したが、シーズン途中で茨城に長期派遣となり、苦労の多いチーム運営となる。だが、前年からの新人勧誘活動が功を奏しはじめ、新田・古川・木村・金子・鈴木らが加入、チーム戦力は復活に向かう。夏には二年間中断していた合宿を山中湖にて再開、新人新田や説教魔加順などがブレイクする夜となった。その後、加順は仙台に転勤になるものの、野球への情熱は衰えず、年に数回の野球上京を続けることとなる。しかしこの年、中研リーグの衰退に伴い試合数は減少しつづけ、チーム存続の危機を迎える。そこで大淵が中心となって多摩地区の草野球チームに呼び掛け、TMリーグを結成。秋には数試合の練習試合をこなして翌年の本格始動に備えた。納会会場は「にほんばし亭」。二冠王の大淵が首位打者加順らを抑えてMVP獲得、2年前の雪辱を果たした。
1998年 (12勝5敗2分)
第六代主将に阿部が就任。小林・池上・井筒という若い新入団選手を迎え、チーム活性化を図る。また、IT化の波を受けてチームのウェブサイトが開設され、電子メールによる連絡が急速に普及してきた。チーム力の充実に伴い、市民大会Bクラスでも上位に進出、さらにこの年はじまったTMリーグでは、ダークホースと同率で優勝という快挙を果たした。第4回合宿は軽井沢にて開催。この年、主将阿部自らが史上2人目(単独では初)の三冠王を獲得。「い志井」で行なわれた納会では文句なしのMVPを獲得した。
1999年 (15勝6敗3分)
第七代主将に細野が就任。前年からの着実な積み上げで戦力が充実し、第二次黄金期を迎える。夏の間の不調がたたってTMリーグ二年連続優勝は逃すものの、秋になってからの快進撃で、ついに国分寺市民大会Bクラスで優勝。同時にAクラス昇格を決めた。また、那須スポーツセンターにて合宿を開催。第5回目にして初めての本格的な球場での開催となる。終盤には玉木・森山といった新人も加入。「しちりん亭」で開かれた納会では、3タイトル獲得の井筒が首位打者小林を抑えてMVPを獲得。
2000年 (6勝13敗)
第八代主将に吉永が就任。部下の内角をチームに引き込む。前年に比べて大幅な戦力低下は無かったはずだが、春先から不調が続き、6勝13敗と大幅に負け越し。前年に続いて那須で行なった第6回合宿の成果も現れなかった。これは、市民大会でのAクラス昇格やTMリーグ各チームの戦力の底上げなどで、厳しい相手との対戦が続くようになった結果とも考えられる。95年から96年にかけてもそうだったが、黄金時代から低迷期への没落の早いことよ。さらに追い討ちをかけるように、秋には吉永主将と内角が渡米。新田主将代行が指揮を取るも、岡の両手首骨折や阿部のスパイク負傷などによる戦力低下もあって、厳しい状態のままシーズンを終えることとなった。98年に続き「い志井」で納会を開催。最多勝&打点王の細野を抑え、首位打者&盗塁王の伊藤が二度目のMVP獲得となった。MVPおよび首位打者を二度獲得したのは、いずれも伊藤が初めて。
2001年 (8勝10敗1分)
第九代主将に古川が就任するも、前年からの不調が続き、苦しい滑り出し。シーズン初勝利はなんと6月23日であった。小林・池上の負傷による長期欠場に加えて、夏には藤原・細野が相次いで転勤で戦線離脱。さらに玉木までもが試合中の怪我で欠場と不運が続き、いよいよ試合の開催さえ難しくなってきたところで、ようやく新人勧誘活動の成果が出始める。初のインターネット新人となった落合に続き、嵯峨・藤嶋・大塚と、強力な新戦力を得た。夏には恒例の那須合宿。秋の市民大会では、野球連盟の連絡ミスによる不戦敗失格およびBクラス落ちという不運もあったが、後半戦はチーム成績も上昇しはじめた。9月には吉永が帰国、12月には、負傷の玉木と病気療養中だった内角も復帰し、翌年に向けて希望を持ちつつ「和楽亭」での納会を迎える。MVPには、秋になって猛打爆発、首位打者・打点王・盗塁王の三冠を獲得した落合が文句無しで選出された。
2002年 (5勝11敗1分)
第十代主将に岡が就任。伊藤副主将、小林マネージャーとのトロイカ体制でシーズンに臨む。一年間の米国勤務となった大淵を欠くものの、安達、山家、松岡(シーズン途中で脱退)という新戦力を迎えた。怪我から復帰した小林も加え、シーズンを通して打線は例年になく好調ながらも、投手・守備力の問題からなかなか勝利に恵まれない。Aクラス復帰を賭けて臨んだ市民大会も、春秋連続してスカイフレンズの前に沈んだ。夏合宿は3年間続いた那須から白馬に変更。合宿先で初の公式戦も行なったが大敗し、唯一吉永が地元のおじさんに気に入られたことが収穫だった。結局シーズン成績は3年連続の負け越し。星の潰しあいとなったTMリーグでタナボタの同率優勝を勝ち取ったものの、決して満足な内容ではなかった。納会会場は「天松」、首位打者&本塁打王の阿部を押さえて、本塁打王&打点王の落合が、史上初の2年連続MVPを獲得。国士無双戦の大逆転満塁ホームランが強く印象に残った。
2003年 (9勝9敗2分)
第十一代主将に小林が就任。新人加入はなかったが、大淵がアメリカから帰国し、唯一の全試合出場を果たす。チームは4~5月を無難に乗り切ると、6月に始まった市民大会で打線が爆発。2試合連続コールド勝ちでベスト4に進んだが、Aクラス進出をかけた準決勝でスケルトンズに敗れた。すると夏から打線が徐々に勢いを失い始める。初めて秋に行なわれた鹿島合宿は、初日練習/2日目練習試合という充実した内容だったが、その成果もその後の試合には反映されず。シーズン前半のチーム打率は.270、後半は.210という急落だった。TMリーグは相変わらず一進一退の成績で、終わってみれば3勝3敗の4位。それでもチーム総合成績としては4年ぶりのシーズン勝ち越しを目指したが、9勝7敗から2連敗のあと、勝ち越しを賭けた最終戦が雨天中止、結局ちょうど5割で終わった。「あひるのたまご」で行なわれた納会では、打点王の古川を2票差で押さえた落合が3年連続でMVP獲得。今年は打撃不振だったが、それを補って余りある投手としての活躍が光った。
2004年 (11勝8敗1分)
第十二代主将に大淵が就任。春先は不調で、初めて参加した草魂カップは2回戦敗退、TMリーグも2連敗という苦しい滑り出し、そしてこの年からB・Cクラス合併で「2部」に所属することになった市民大会でも、2回戦で伏兵・EBIROBAに敗れた。しかし7月3日のパワーズ戦に勝ったところから調子が出はじめ、10月10日の市民大会2回戦まで怒濤の7連勝。連勝が止まった後も、市民大会3試合連続コールド勝ちで準決勝進出。しかし、準決勝ではスーパーフィーバーズに敗れて1部昇格はならず。後から見れば、春・秋とも優勝チームに敗退ということで、クジ運にも恵まれなかった。シーズン終盤には新人・高峰も加わり、最終的には5年ぶりの勝ち越しでシーズンを終えることになった。「海宴丸」で行なわれた納会では、首位打者・盗塁王の小林を押さえて、最多勝・本塁打王・打点王の落合がMVPを獲得。これで4年連続のMVPとなり、「殿堂入り(する代わりにMVP受賞資格剥奪?)」という声もチラホラと聞こえてきた。

2005年 (9勝9敗)
開幕前、8年ぶりのユニフォーム改訂が行なわれ、これまでの紺+グレーに代わり、紺ストライプの上下のユニフォームとなった。第十三代主将に就任したのは吉永。この年は、仙台から再び転勤で東京に帰ってきた加順がチームに復帰。また、久々のインターネット新人・井上の加入もあり、人材豊富な開幕となる。しかし、春の市民大会は3回戦で宿敵スカイフレンズにまたしても破れると、そこからチームの調子が下降し始める。特に打線の低迷ぶりはひどく、10月末には前代未聞のチーム打率1割6分台という有りさま。それに加えて、秋には玉木が渡米、中村と阿部が転勤になるなど、メンバーも揃わなくなってくる。秋の市民大会は2回戦でダッフンダに完封負け。しかもこの試合で古川が肉離れを起こして戦線離脱となる。それでもどうにか最後の数試合では打線も上向きになり、春先の貯金もあってチーム成績は9勝9敗の五分。「貴よし」で行なわれた納会は、参加者7名という危機的状況に見舞われながらも、逆にディープな野球談義で翌朝まで盛り上がった。MVPは唯一の3割打者となった加順が文句なしで受賞。落合の連続MVP記録をようやくストップさせた。
2006年 (10勝5敗1分)
第十四代主将に加順が就任。シーズン序盤は人の集まりが悪く、勝敗以前の状況で、市民大会も初戦敗退。6月末時点でわずか4試合(1勝3敗)という状況。しかし、清水・冨永・大串の加入により人数が揃うようになると、勝敗も上向きはじめる。秋の市民大会こそ、7年ぶり対戦のリオンに土壇場で追いつかれてジャンケン負けとなるものの、この試合を挟んで4連勝-1敗-5連勝という快進撃。さらに秋には、井上(貴)・多田・村山・田代・清田と新人が加わり、年間合計8人の新加入というこれまでに無かった盛り上がりを見せた。この年は助っ人の参加も多く、年間記録を見ると、実に27人もが出場したシーズンでもあった。6年ぶりに「い志井」で行なわれた納会は、去年とはうってかわって15人もが参加して大盛会。首位打者&本塁打王の井上(敏)がMVPを取ると同時に、2年続けて「MVPが翌年の主将」という選考となった。
2007年 (10勝7敗1分)
第十五代主将に井上(敏)が就任。開幕前からチーム内のルール整備に着手するなど、久しぶりの改革型政権となる。さらに、春にはチーム設立の立役者であった篠原が東京に戻ってきて、実に13年ぶりの復帰を果たす。この年からは、TMリーグの終了により、市民大会と練習試合とが活動の場となるが、春先は微妙に黒星が先行し、市民大会も初戦敗退という苦しい展開。しかし、夏ごろから打線の調子が上向きになると、エース落合のピッチングも好調に転じ、チーム成績も好転。秋季市民大会は3連勝で準決勝に進んだ。ちょうどこの頃、井上(敏)主将が家庭の事情で辞任、清水主将代行の指揮のもと、一部昇格を賭けたダッフンダ戦に臨んだが、惜しくも1点差で敗れた。「なかなか」で行なわれた納会では、復帰初年度に首位打者・打点王を獲得した篠原がMVPに選出。さらに3年連続でMVP=翌年度主将ということになった。
2008年 (12勝13敗)
第十六代主将に篠原が就任。チーム史上初めて2月に開幕。また、国分寺市民大会では、脱退チームがあり補欠繰上げで一部昇格となる。春先は好調で4勝2敗として春の市民大会一回戦に臨むと、入団2試合目の新人船橋の活躍などで4対1の快勝。記念すべき一部での初勝利を挙げた。ところが、市民大会二回戦でスーパーフィーバーズにコールド負けしてから調子は一気に下り坂。5連敗から1勝を挟んで更に4連敗、秋の市民大会も国分寺上手にあっさり一回戦負け。11月後半の時点で借金4という状態だったが、ここから主将の頑張りで例年になく試合が入り、11月29日にダブルヘッダー連勝、12月6・13日を2勝1敗で乗り切り借金1として最終12月20日。ダブルヘッダー初戦を勝ち年間成績を12勝12敗の五分としたものの、最後は力尽きて第二試合を落とし、残念ながら年間成績は借金1。それでもチーム史上最多となる年間25試合をこなし、チーム設立17年目にしてなお野球熱の衰えないところを見せた。夏には「滝ヶ原で練習+奥多摩でバーベキュー」という新方式の合宿も開催。「赤ちょうちん」で開かれた納会では、落合が4年ぶり5回目となるMVPを受賞した。
2009年 (17勝11敗3分)
第十七代主将に清田が就任。岡が広島転勤という驚きのニュースとともに迎えた開幕。それでも3月中に3試合をこなすが、2・3戦目のダブルヘッダーに連敗、しかも2試合目はノーヒットノーランを喫するという苦しい春先となる。その後徐々に調子が出始め、6月の市民大会では、強豪・日立超L相手に1対1の引き分けと善戦する(残念ながら抽選敗退)。その後、夏から秋口にかけては勝ったり負けたりの状態。田代の大阪転勤による戦力ダウンもあり、秋の市民大会も、ダッフンダに6対0と完敗だった。しかし、伊藤晋・堤・三宅・近藤・藤島という豪華新人5人がチームになじんできた10月から、チーム成績も急上昇。驚異的なペースで対戦相手探しを続ける清田主将の情熱とも相まって、10月24日から12月12日まで破竹の9連勝を成し遂げる。その12月12日は、チーム史上初のトリプルヘッダー、残念ながら第2・第3試合を連敗し、今シーズン2度目のノーヒットノーラン負けというおまけもあったが、最終的に31試合(もちろんチーム新記録)をこなしたシーズンを象徴する一日となる。終わってみると、チーム打率は.219で例年とさほど変わらないが、傑出した成績の打者がおらず、史上初の打率2割台首位打者誕生となってしまった。昨年に続き「赤ちょうちん」で行なわれた納会では、その2割台首位打者・清田が、1998年の阿部以来の「主将でMVP受賞」となり、大活躍の一年を終えた。
2010年 (23勝6敗1分)
第十八代主将に船橋が就任。春先はチーム運営に苦労するが、大淵が急遽マネージャーに就任することになってからは、前年同様精力的に試合をこなしていく。二部に降格した市民大会での4連勝も含め、開幕8連勝で迎えた市民大会決勝では、日立中研に0-1で敗れて優勝こそ逃がすものの、わずか一期での一部復帰を果たした。この年は、早川・有銘・小林紀という新人3人の加入に加え、2006年から助っ人として13試合に出場していた太田がついに正式入部。その効果もあってか、かつてない高レベルの打撃タイトル争いが展開される。秋の市民大会こそ、ストロングナインに3-4で惜敗するものの、その後も勝ち星先行の展開は続き、終わってみれば、前年なみの30試合を消化し、貯金17という好成績。特にエース落合は15勝0敗という完璧な一年を過ごした。その他にも、安打・打点・得点・盗塁のチーム記録が塗り替えられるなど、記録ずくめの一年となった。3年続けて「赤ちょうちん」で開催された納会では、打率.424を挙げながら首位打者を逃がした藤島が、28安打40盗塁という好記録を評価されてMVP獲得。チーム打率.305という脅威の一年を締めくくった。
2011年 (9勝8敗3分)
第十九代主将に安達が就任。3月5日に順調な開幕を迎えたが、直後に東日本大震災が発生し、3月中の活動は中止となる。それでも再開後は順調に活動し、市民大会初戦では、イージャンズを相手に3点ビハインドを最終回に追いつくという劇的な展開で(引き分け抽選勝ちながら)2回戦進出。ところがその後、雨天中止と人数不足が交互に続き、実に6週間ぶりの活動となった市民大会2回戦は、7対0の一方的な敗戦となる。さらに7月からは、一部メンバーの勤務先が輪番休日となり、いよいよ人数不足で活動が難しくなる。秋の市民大会は、春と同じくイージャンズとの対戦となり、しかもまたしても最終回に2点差を追いつく。しかし今回は時間に余裕があり、特別ルールでの延長戦に突入。表の攻撃で1点を取るものの、その裏2点を返されてサヨナラ負けとなった。その後、ようやく輪番休日が終わり、新人として寺田・篠塚も入団するなど、活動活発化が期待されたが、まるで魅入られたかのように土曜日に雨が降る巡り合わせが続き、結局11月は一度も活動できず。それでもシーズン最終戦となる12月17日には、2年ぶりとなるトリプルヘッダーを敢行。どうにか年間20試合をこなし、3年連続の勝ち越しでシーズンを終えた。4年続けて「赤ちょうちん」で開催された納会では、春先から猛烈な勢いで打ちまくった落合が、圧倒的な記録の三冠王でMVPを獲得。打率は2位に9分差、ホームランは5本差、打点は12点差という圧倒ぶりであった。
2012年 (16勝10敗1分)
この年は、前年度納会で主将が決まらず、主将不在で新年を迎えた。その後ようやく立候補者が現れ、投票のすえ、伊藤(研)が第二十代主将に就任。18年ぶりに指揮を取る伊藤主将は開幕とともに意欲的な改革に取りかかり、まずは先発投手陣整備のためにトライアウトを実施。そこで発掘された太田・篠原両投手は年間を通じて安定したピッチングを見せた。また、与走者率という新しい指標を導入し、投手間の競争を盛り上げた。春先早々、冨永が渡米のため戦列を離れるも、まずは勝ったり負けたりの状態が続いて春の市民大会を迎える。ここで強豪・江夏相手に3対6と惜敗するも、他の試合がすべて接戦ということで、なんと二部落ちとなってしまった。その後も6月までは黒星先行の展開だったが、新入団の樋口がスタメンに定着したあたりから、成績も上昇を始める。二部で臨んだ秋の市民大会は、初戦でU・Oに快勝した後、2回戦でヤンキーに惜敗。しかしそれ以外の試合は快勝が続く。秋には新人・加藤や助っ人・武藤の活躍などもあり、10月以降は7勝1敗という好成績で閉幕を迎えた。シーズン成績は16勝10敗で、4年連続の勝ち越し。5年連続「赤ちょうちん」での開催となった納会では、主将としての活躍とともに、打率最下位ながら脅威の23打点(シーズンタイ記録)で打点王となった伊藤(研)を抑え、打率・本塁打の二冠王となった小林(紀)がMVPを獲得。個人記録では、9年続いた落合の最多勝利を、10年目にして大淵が阻止。また、新人ながら26盗塁で盗塁王となった樋口が新人王に選ばれた。
2013年 (18勝11敗1分)
古川が第二十一代主将に就任。春先は、主将のポリシーに基づく「出塁率高い順打線」が好調で、市民大会初戦を含めて7勝1分という滑り出し。投手陣でも、この間に2勝の篠塚が先発の軸に名乗りを上げる。その後は勝ち負けを交互に繰り返すが、準決勝まで進んだ市民大会ではJRシステムにコールド負けで完敗し、またしても二部残留となる。9月には11年ぶり開催の中研カップに臨み、土壇場の逆転で決勝進出するも、スターズに苦杯を喫し準優勝に終わった。シーズンを通しては、3年ぶりの30試合到達で、5年連続の勝ち越し。新人を欠く年ではあったが、5年ぶり出場の直江が本格復帰し、貴重な戦力となった。個人タイトル争いでは、9月末の時点で打率.333の小林紀が多忙で出場できない状態が続き、規定打席に到達するかどうかがポイントとなったが、結果的には不足分を凡打計算しても打率.300で、太田と同率での特例首位打者となった。21回目にして初めて国分寺を離れ、立川「慶州苑」で開催された納会では、首位打者獲得とともに、主将が重視した出塁率で.510という好成績を挙げた太田がMVPを獲得。そして6年ぶりのMVP=翌年度主将となった。
2014年 (11勝14敗2分)
太田が第二十二代主将に就任。樋口の転職引っ越しという驚きのニュースで始まったシーズンは、古川の体調不良による長期離脱などもあり、まったく人数が足りない危機的な状況となる。それでも、太田主将の精力的な助っ人探しにより、毎試合のように2~3人の助っ人を見つけてどうにか試合をこなしていく。5月には、実に15人を集めてのトリプルヘッダーも開催した。その後、夏から体験入部していた田川が9月に正式入部するなど、徐々に陣容が整ってくる。春の市民大会こそ強豪クラウン相手に初戦惜敗だったが、秋の市民大会では、日程がなかなか消化されない中、11月の3週連続勝利で決勝に進出した(日程未消化で決勝は翌年に順延)。チーム成績も、一時は5つの負け越しまで行ったものの、秋の快進撃で10勝10敗の五分まで持ち直す。最後は12月の苦戦により3つの負け越しとなったが、人数不足にも負けず、例年並みの27試合を戦ってシーズンを終えた。個人タイトルでは、首位打者争いが最終戦までもつれ、7回裏最終打席でヒットを打てば太田がタイトル獲得だったが、あえなく凡退し、清田が5年ぶりの首位打者となった。この年は、神奈川組に配慮して登戸「シャランホン」での納会開催。首位打者と同じく、清田が5年ぶりのMVP獲得となった。また、シーズン後半に助っ人として出場してくれた人たちも納会に参加。そしてその場で、大野・田口・岸・谷口の入部が決定、来年に向けて楽しみなシーズン閉幕となった。
2015年 (9勝15敗2分)
落合が第二十三代主将に就任。休部の清水と入れ替わりに、新入団の山田を迎えての開幕となった。前年から持ち越しの市民大会決勝は雨で中止(両チーム優勝)。その対戦相手だったクラウンと春季大会初戦で再戦するもあえなく敗戦。昨年の春季大会から3期連続の対戦で、2敗1雨天中止ということになった。その後、序盤は五分の星で進むが、6月が4戦全敗で借金生活入り。7月には大天が入部し、そこから2連勝と勢いに乗るかと思われたが、その後の8月・9月が4戦全敗で、依然として苦しいシーズンが続く。秋の市民大会も1回戦で国分寺市役所に完敗。10月以降は若干持ち直すものの、最終成績は2年連続の負け越し。SLASHに1勝2敗1分、メッツに1勝2敗と、これまで比較的対戦成績の良かった相手にも負け越した。といった具合に成績としては芳しくなかったものの、昨年以降の新人7人が延べ72試合に出場するなど、チームとしての活気は増してきたシーズンでもあった。立川「すみびや」で開催された納会では、山田と大野の二人の新人が、それぞれMVPと新人王を分け合って受賞。新しい戦力の活躍ぶりを象徴する表彰となった。
2016年 (15勝13敗)
大淵が第二十四代主将に就任。春先は人の集まりも良く、4月までに10試合をこなすという盛況ぶり。その間の戦績も7勝3敗と好調を維持した。その後、春の市民大会の初戦でイージャンズに完封負けを喫すると、5・6月は1勝4敗と苦しむも、7月からは再び連勝を続ける。6月には新入団の吉冨がデビュー。7月の初登板から1勝1Sを挙げ、9月には満を持しての市民大会初先発。見事なピッチングで国分寺市役所に快勝した。さらに、現行ユニフォームの製造中止のニュースを受け、夏には新ユニフォーム選定委員会が発足。落合委員長の選定により新ユニフォームが決定するも、そのデザインは完成まで秘密とされる。この後、秋になると人の集まりが徐々に悪くなり、活動ペースが落ちて来る。また、市民大会2回戦は鉄道総研に敗れ、その後の試合も黒星が増えてくるが、それでも何とか例年並みの28試合を消化し、3年ぶりの勝ち越しでシーズンを終える。また、12月16日の最終戦では待望の新ユニフォームがお披露目され、来年に向けての楽しみを抱えてのシーズンオフとなった。立川「とり政」で行われた納会では、首位打者・盗塁王の大野が見事MVPを獲得。唯一の新人・吉冨も、「翌年持ち越し」や「該当者なし」の票を大きく上回り、納得の新人王に選ばれた。

2017年 (9勝6敗)
船橋が第二十五代主将に就任。新ユニフォーム本格始動のシーズンだが、春先から、山田(弘)の転勤や古川の休部などの厳しいニュースが続く。それでも戦績の方は好調で、市民大会1回戦ではでは鉄道総研に快勝、2回戦も江夏相手に善戦したが、2対3で惜しくも準決勝進出は逃した。その後は人集めにも苦労する状況の中、待望の新人として山田(陽)が加入。さらに、帰京のたびに試合に出てくれる山田(弘)の活躍もあり、なんとか活動を続けていくことができた。7月までに10試合を消化して7勝3敗という状況だったが、そこから試合の無い期間が2か月ほど続き、久しぶりの活動となった市民大会は1回戦で鉄道総研べてらんずに完封負け。それでも最後は10・11月で5試合をこなし、年間15試合で活動を終えた。残念ながら12月には試合の無い中、日曜日開催となった納会は立川の「溶岩焼IZUMO」で実施。規定打席不足の山田(弘)が特別規定で首位打者を取るなど、例年にない展開の中、酔っぱらった参加者全員が「誰がMVPに選出されたか」を忘れてしまうという前代未聞の事態となったが、その後の調査で落合がMVPと判明。6年ぶり史上最多の7回目の受賞となった。
2018年 (10勝12敗)
清田が第二十六代主将に就任。開幕を前に、吉冨・古川の二人が海外赴任という緊急事態が勃発。なかなか人数が揃わない中、助っ人頼みの状態で試合を続けるが、戦績の方も苦戦が続く。春の市民大会は国分寺市役所に0対10で完敗。6月前半までで1勝6敗と大きく負け越した。しかし、夏になると、藤原・中島の2名の新人が加入。さらに岩沢・松浦も仮入部で参加するようになり、活動の活発化とともに、戦績も上向きになってくる。秋の市民大会こそゼルコバパワーズに完敗するも、9月以降は6勝3敗と大きく勝ち越してシーズンを終えた。10月には山田(弘)の東京帰還という朗報もあり、翌年に向けて希望が持てる状況での閉幕となった。立川の「野球鳥」で開催された納会では、7年ぶりの三冠王となった岩沢が、「岩沢さんの奥さん」などの票を抑えてMVPを獲得。さらに岩沢・松浦の二人の正式入部も決定し、例年以上の盛り上がりで一年を終えた。
2019年 (17勝15敗1分)
山田(弘)が第二十七代主将に就任。この年は、けやき公園野球場の改装のため国分寺市民大会が休止。開幕前に声をかけてもらって入会することになった東京オレンジリーグが活動の中心となる。そのオレンジリーグは、リーグ戦こそ勝ったり負けたりを繰り返すものの、トーナメント戦は順調に勝ち上がっていく。前年から特に新戦力は無かったが、オレンジリーグの活発な活動と、山田主将の精力的なマッチメイキングに支えられ、春先から順調に試合数をこなしていき、6月末で既に17試合という驚異のペース。その後ややペースが落ちるものの、最終的には33試合というチーム新記録を達成。シーズン終盤を5連敗で終えるという尻すぼみながらも、どうにかシーズン勝ち越しも保った。また、オレンジトーナメントでは、決勝戦でドルフィンズを破って見事に優勝。総合ランキングでも2位に入った。この年は、これまでの主戦場だった滝が原での活動が激減。代わって活動が増えたのが大塚公園であった。この狭い球場に見事に適応したバッティングを見せたのが山田(弘)で、大塚公園だけで5本の本塁打を放った。納会会場は立川の「とり敷」。MVPは、三冠王の山田(弘)が文句なしの受賞となった。
2020年 (15勝14敗1分)
大野が第二十八代主将に就任。再開した国分寺市民大会には参加せず、オレンジリーグ中心の活動とすることを決めて開幕を迎えた。しかし、3月に3試合を消化したところで新型コロナによる緊急事態宣言となり、活動休止となる。6月6日に活動再開するも、7月は雨天中止が続きなかなかな試合ができない。それでも大野主将は精力的に試合を設定し、8月には7試合を消化。新人として今橋・宮岡が加わり、吉冨の帰国復帰もあって一気に活動が活発化する。2年目を迎えたオレンジリーグは、序盤から黒星先行で、結局2勝4敗という残念な結果となったが、トーナメントでは昨年に続いて順調に勝ち上がる。しかし、10月24日の決勝では、惜しくもドルフィンズに敗れた。この結果、オレンジリーグの総合ランキングは5位となった。秋には大野主将転勤の報がもたらされるが、それでも益々精力的に試合が設定される。10月終了時点では9勝12敗という黒星先行だったが、そこから11・12月の9試合を大きく勝ち越し、年間成績はどうにか勝ち越しを確保した。12月になっても感染が収束しない中、初の試みとして、「漁師の台所 浜田屋」とオンライン(Zoom)でのハイブリッド納会を実施。規定打席未達ながらも.548という驚異の打率を残し、2017年以来の特別規定による首位打者となった宮岡が、新人王とMVPのダブル受賞となり、波乱のシーズンを終えた。
2021年 (15勝25敗3分)
山田(陽)が第二十九代主将に就任。引き続きコロナ禍での活動だったが、大勢の助っ人さんたちの助けもあり、精力的に試合を行っていった。オレンジリーグは2試合連続引き分けで始まったが、その後4月から5月にかけて黒星が続き、チーム記録となる8連敗を喫してしまう。その途中では、1対29という屈辱的な敗戦もあった。それでも、助っ人軍団の中から白井・可部谷の両名が正式入団するという明るいニュースもあり、チームの雰囲気は決して悪くない。6月終了時点で21試合消化というハイペースの中、ようやく白星も挙げられるようになってくる。10月には月間8試合というハイペースで試合数を積み上げるが、その中での6連敗もあり、再び借金が増えていく。結局、年間の試合数は脅威の43、もちろんチーム新記録で、山田(陽)主将の意気込みが実ったシーズンでもあった。新型コロナ感染がやや弱まる中、立川「ねんごろ」で行われた納会では、三冠王を獲得した宮岡が2年連続のMVPを獲得、新人王は白井・可部谷の同時受賞となった。また、投手の最多勝争いでは、落合が貫禄のタイトル獲得となるも、山田(陽)・岩沢・大淵の三人が1勝差で続き、投手陣再編成が実ってきたシーズンでもあった。
2022年 (8勝29敗2分)
太田が第三十代主将に就任。開幕早々に、これまでも助っ人で来ていた佐藤の正式入団が決まり、順調な出だしとなる。しかし戦績の方は奮わず、開幕4連敗のあと、かろうじてSLASHに1勝するも、そこから8連敗でなんと1勝12敗という超低空飛行。オレンジリーグも、リーグ戦を1勝3敗でスタートして早々に上位争いから脱落した。それでも6月になるとようやく勝てる試合も出はじめ、続く7月は3勝1敗と勝ち越し。9月には4年ぶりに帰国した古川が出場するも、2度目の出場となった日にいきなり負傷で今シーズンは3試合出場に留まる。その後、10月29日にメッツに勝って8勝22敗とするが、そこからなんと7連敗でシーズンを終えるという厳しい秋となってしまった。それでも、年間を通して活発な活動を続け、この年も39試合という活動量を確保。勝敗にとらわれずに野球を楽しむ姿勢が浸透した一年でもあった。立川「海鮮魚力」で行われた納会では、首位打者の太田を抑えて、本塁打王・打点王・盗塁王の大野がMVPを獲得。また、唯一の新人の佐藤が文句なく新人王に選ばれた。
2023年 (18勝20敗4分)
落合が第三十一代主将に就任。新人・徳水を迎えて開幕を迎えると、この年はメンバーの出席率が高く、助っ人なしでの安定運営が続く。結局、年間を通しての助っ人参加は2試合のみであった。4月は黒星先行も、5・6月は勝ち越し、7月はまた負け越しと微妙な戦績が続く。オレンジリーグは序盤の負けが響いて3勝4敗。オレンジトーナメントも1勝1分しかできなかったが、他チームの未消化がありなぜか優勝してしまい、総合ランキングも4位に食い込む。10月には、2003年以来実に20年ぶりとなる合宿を実施。八ヶ岳のグラウンドには松本在住の加順も現れ、夜のバーベキュー、翌日の観光&ゴルフも含めて盛り上がった。合宿の成果もあって10月以降は勝率が上がり、12月9日時点で残り4試合を全勝すれば年間勝ち越しという状況だったが、ダブルヘッダー第2試合で残念ながら敗戦。それでも年間42試合をほぼ5割の成績で戦い抜いた。5年ぶりに立川「野球鳥」で開催された納会では、三冠王の落合がMVP、41試合出場の徳水が新人王に、それぞれ文句なく選出。年間安打数や三塁打数、打点、得点、四死球など、多くの年間記録が書き換えられたシーズンでもあった。
2024年
可部谷が第三十二代主将に就任。

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